東北を訪ねて

ちょうど1週間前、取材で東北を訪ねた。

三陸沿岸の地は、至るところが更地になっていた。
山を切り開いて高台を築き、住宅の造成地としていた。クレーン車が目に付いた。

震災から5年近くも経つというのに、仮設住宅が残っている。今も「仮住まい」での暮らしを余儀なくされている人たちがいる。

木々の根元から高さ2〜3mのところまで枝が付いていないのは、「そこまで津波が押し寄せた」という痕だと聞いた。

風がえらく冷たくて、震えた。
「まだまだ、これは、そよ風ですよ」
地元の人にそう笑われた。
震災のあの日、寒風に凍えながら、救出を待っていた人たちがいたのだと思うと、居た堪れなくなった。

三陸の海は、美しかった。
見渡す限り水平線。太平洋が広がっている。
でも、あの日、津波となって、この海は荒れ狂ったのだ。
複雑な気持ちで、海を見ていた。

町のレコード屋

本厚木での取材前、駅の近くのCDショップに立ち寄ることにした。
地元出身のバンド、「いきものがかり」をインディーズ時代から応援していた店だという。それが、ネット通販やダウンロード販売の時流には勝てず、今月いっぱいで閉店すると新聞記事で知った。

いきものがかりがデビュー前に路上ライブをしていた小田急本厚木駅から歩いて数分。1964年に開店した「タハラ」は楽器も販売し、音楽を志す地元の若者が集まる場でもあった」(朝日新聞夕刊、1月18日付)

町の音楽、文化をサポートし、牽引してきた店だったのだろう。その姿を一目、見ておきたいと思った。

店は、商店街の一角にあった。
中に入ると、いきものがかりのアルバムが並び、彼らの曲が流れていた。壁には彼らのポスターや書き込み、ファンの綴ったメッセージカードが何十枚、何百枚と貼られていた。

だが、店の棚は、隙間が目立つ。1階の邦楽コーナーも、地階の洋楽コーナーも。閉店を目前に控えているのが感じられる。

「閉店のお知らせ」の張り紙を見ると、「1964年10月に開店」。
ちょうど自分の生まれた頃に、この店も産声を上げたことになる。ひとり勝手に縁を感じた。

思えば、こういうCDショップ、いや、レコード屋はかつてどの町にもあったのだ。子どもの頃、ちょっと緊張しながら、背伸びして、店に入ったことも思い出す。

店の棚を一巡し、数少なくなった在庫から、以前から聴きたかった大島保克さんのアルバムを手に取り、レジへ。

店員さんは、CDを丁寧に袋に入れてくれた。
「ありがとうございます」
よそ者の自分が言えるのは、この一言だけだろう。
敬意とエール、餞別の気持ちを込めて、店員さんに僕はそう返した。

「パンとペン」〜物書きの魂

○土曜日。
ノンフィクション作家・黒岩比佐子さんの講演会に行く(会場は、神保町の東京堂書店)。

この10月に刊行された著書『パンとペン〜社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』をめぐっての話。堺は明治期、幸徳秋水と並ぶ社会主義者としてはよく知られている。だが、「売文社」という名の日本初の編集プロダクションを立ち上げ、海外文学を翻訳していたとは知らなかった。運動への厳しい弾圧の中、「食べることと書くこと、運動を続けること」の狭間で、ユーモア精神で闘い抜いた姿を、黒岩さんは描いたのだという。

講演は、この400ページ以上の大著への、素晴らしいプロローグだった。同時に、本のタイトル、「パンとペン」を身をもって伝えられた気がした。黒岩さんは重い病と闘いながら、執筆を続け、見事に貫徹された。間近でお話を聴くことで、物書きとしての魂を教わった。背筋が伸びた。

紹介して下さった中で、印象に残った堺の言葉。

「自分たちのやっていることは、もしかしたら道楽なのかもしれない。でも、道楽は道楽でも、命がけの道楽をしてるんだよ」

インディペンデント

日付が変わった、10時間ほど前のこと。
出先で仕事が終わった後、しばらくネット検索で徘徊していた。そうしたら、懐かしい名前に出くわした。

先達の音楽ライターだった。
彼女は、メジャー、インディーズに関係なく、自分が惹かれたミュージシャンのことを、いつも丁寧に、文に紡いでいた。足繁くライブに通い、楽曲を聴き込んでのインタビューは、学ぶことが多かった。

僕は、久しぶりに彼女のサイトにアップされていた、好きなミュージシャンのロングインタビューを読みふけっていた。

だが、その後、「検索」欄の下に浮かぶ文字を見て、愕然とした。
数日前に、彼女は亡くなっていたのだ。

虫の知らせ、だったのか…。

一時期、僕は彼女のサイトをよく読んでいた。そこで取り上げられているミュージシャンが、自分の好みと重なったこともある。ヒートウェイヴソウル・フラワー・ユニオンリクオ沢知恵京都町内会バンド……etc。

「ほぼ毎日更新」のブログも読んでいた。そこには、日々の暮らしのことが実に詳しく記されていた。毎日のようにライブに出かけ、時には、ハシゴもして、しかも、その多くは自腹だったはずだ。ミュージシャンを応援する者として、また、書く対象との距離を保つという意味でも、そのスタンスに共感した。かくありたいと思った。

業界に流されず、インディペンデントのライターとして歩む。そこには、生活とのかねあいも当然、生まれる。時には、朝方までバイトをしながら糊口をしのぎ、好きなミュージシャンのことを伝えんとする。しかも、病を押して。そんな体を張った姿にも圧倒された。

だからこそ、ミュージシャンと深い対話(インタビュー)ができたのだろうと思う。

直接、お目にかかって、お話しできなかったことが、ほんとうに悔やまれる。
何度かメールでやりとりしたり、ネットラジオに投稿し、読んでもらったことはあった。ライブハウスでニアミスしたことも、きっと何回もあったろう。彼女がブッキングを手がけていたライブハウスにも行ったことがあったのに……。

奇しくも、今日は拙者の誕生日。
先達からメッセージを受け取った気がした。

角野恵津子さん、ありがとうございました。

*彼女が、どれだけミュージシャンから信頼され、愛されていたか。ネットを見ると、心のこもった追悼の言葉が数多く、綴られている。

海辺の小さな町へ

○日曜日。
海辺の町へ取材。老舗の個人商店を2年ぶりに訪ねる。

おじいさんから孫、近所の方も来て、昼食と夕食をいただく。大家族に囲まれての、心和むひととき。みなさんから、指折り数え切れないほどの、たくさんの心遣いをいただく。身に余った。ひとつひとつが身に染みた。

「利益優先ではなく、人情を大事にする」
古き良き商いの心が、このご家族には受け継がれている。
20代のお孫さんの座右の銘が、「勤勉・正直・感謝」というのだから。

秋晴れの昼下がり。海辺を案内してもらった。
「海からの贈り物なんだよ、これは」
海岸には、さまざまな貝殻などが落ちていた。
その中で、貴重な一品をいただく。

ちょうど秋祭りの日。地元の神社は、大勢の人でにぎわっていた。
夕暮れどきに、お祭りを見せてもらう。
「おっ、久しぶり!」「元気?」
若い人も、年配の人も、旧友と再会し、喜び合う場面が何度も見られた。
祭りがあるから郷里に帰る。
いいものだと思う。

長い時間、電車に揺られ、深夜帰宅。
すると、海辺を案内して下さった方から、また、会いましょうとメールが届いていた。

「故郷に帰るつもりでゆっくり遊びにお出掛け下さい」

あたたかい言葉をいただき、「ありがとうございます」を繰り返した。

持続する精神

○土曜日。
今年で、数え年90になる報道カメラマンの講演会&写真展に行く。
「遺言」と題されたように、氏の思いの丈を聴く場であった。

先の戦争、従軍体験が自身の原点というだけに、その後の知見も交えての戦争の話が多くを占めた。憲法「改正」への危惧も聞かれた。

広島の、ある被爆者を20年以上、撮影し続けた写真とエピソードには、胸が詰まった。

そして、今も現役の報道カメラマンとして、時折、現場に立つ氏の姿に、感動した。

「『終戦』と言う人とは、僕は口を利かんようにしています(笑)。あの戦争は、負けた戦争です。『敗戦』なんです。『終戦』とは、戦争責任をあいまいにしようと考えた言葉なんです」

話の中に、氏のユーモアが時折、かいま見えた。
そこに、持続する精神を思う。

一緒にダンスを踊るように

昨夜ラジオを聴いていたら、元NHKアナウンサーの山根基世さんが出ていた。

20世紀の世界を描いたテレビドキュメンタリー「映像の世紀」のナレーションをはじめ、山根さんの語りは、抑制的で、凛としていて、とても好きなのだが、彼女はまた、インタビューの名手でもある。

山根さんが昨日語っていたインタビュー論。

「インタビューに臨む前には、可能な限り相手のことを調べていく。しかし、いざ、インタビューの時間になったら、下調べしたことから、いかに自由になるかが大事」

「相手から話を引き出そうとしてはいけない。インタビューをしている「今その時」という時間、「共に生きている」ととらえ、向き合いたい。それは、相手に寄り添うことだ。相手の人が「空に昇りたい」といえば、一緒についていく。一緒にダンスを踊るような気持ちで」

先達の言葉に、思い当たることは、いくつもあった。
「一緒にダンスを踊るように」
そんなインタビューを、心がけたい。