旅の空、郷里の風

3年ぶりの帰省だった。

コロナ禍で、帰る機会をなかなか得られなかった。この間、首都圏を一度も離れることなく、過ごしてきた。

久しぶりに乗る新幹線。列車がスピードを上げ、車窓の景色が流れていく。

気持ちが沸き立った。出発前から、きっと解放感に包まれるだろうとは思っていたけれど、予想以上だった。

それまでは電車に乗ると、もっぱら本を開いていた。けれど、この日はほんの少し頁を繰っただけ。

本を読むなんて、もったいない。いま、このときの景色を味わいたい。そう思って、窓の向こうをずっと眺めていた。そして、眠くなったら、眠った。

             *    *    *

郷里の駅に着いたのは、平日の昼過ぎだった。駅周辺は相変わらず閑散としていた。

実家に向かう道のりも、人とすれ違うことはあまりない。車の往来もそれほどではない。2階建てか平屋の一軒家がほとんどのため、空が見渡せる。道路は広く、家々も適度に離れている。

こんなに伸び伸びと歩けるなんて。スペースがあることの心地よさを感じた。

普段は、人も車もビルも多い場所で暮らしているせいもあるだろう。東京で生活するようになって、ずいぶん長い時間が立つけれど、いまだ慣れ切っていないことにも気づく。

横断歩道を渡ろうとすると、向こうからやって来る車は必ず止まり、道を譲ってくれた。バスとおばあさんが道を譲り合い、しばらくお互いに笑顔で佇んだまま、という光景も目にした。

なんて、いい街なんだ。

手前味噌を承知で、そう感じた。

 

最高としか言いようがない

8月31日(水)

山口洋+古市コータロー「50/50」ライブへ。

2人のエレキギターによるセッション、古市さんの色気に、山口さんの熱さに痺れた。そして、ギターを弾くことを心底楽しんでいる彼らの姿に、俺も好きなことをやり抜きたいと思った。

とりわけ、胸に残ったのは、山口さんが歌った「OLD MAN」。「あんたはこの世でいちばん世渡りが下手な男/一生賭けたあんたの仕事が陽の目を見たことはない」の詞で始まる、この曲。たとえ成し遂げられなかったとしても、意志を貫き続けることに意味があるということ。励まされた。

この日のライブにちなんで、我々オーディエンスにプレゼントしてくれたステッカー。そこには、山口さんと古市さんの姿を描いたイラスト(微笑ましいタッチ!)とともに、メッセージが綴られていた。

「俺たちのこれからはある意味予想通りで、最高としか言いようがないな」

自分も、かくありたい。

追記:この夜のライブ会場は、吉祥寺のスターパインズカフェだった。今まで、ここで山口洋さんのライブを幾度も観てきた。アイルランドを代表するシンガー、ポール・ブレイディの演奏も聴いた。大好きなハコ。コロナ禍で営業を休んでいた時も、吉祥寺に行くたび、店の看板を見たくて立ち寄っていた。25周年おめでとうございます!

 

タルコフスキー

友人たちにも勧められて、タルコフスキー監督の映画を見てきた。

遺作となった『サクリファイス』(1986年)。

正直、序盤は苦痛だった。
登場人物たちの哲学的な独白や会話が続き、映像は引きで、長回し。寝不足もあって、何度か居眠りをしてしまった。

だが、ヨーロッパに核ミサイルが投下されたという場面以降、徐々にその世界に惹き込まれていった。

見終わった後、不思議な感覚に包まれた。
喜怒哀楽という明確な感情ではない。
どこまでが現実で、どこからが幻想なのか。
映像と音の美しさとともに、その入り混じった物語世界に身を委ねていた。
映画館を出て、新宿の雑踏を歩いていても、浮遊感がしばらく続いた。

「語る」というより、「感じる」作品なのかもしれない。
こんな映画は初めてだった。

東北を訪ねて

ちょうど1週間前、取材で東北を訪ねた。

三陸沿岸の地は、至るところが更地になっていた。
山を切り開いて高台を築き、住宅の造成地としていた。クレーン車が目に付いた。

震災から5年近くも経つというのに、仮設住宅が残っている。今も「仮住まい」での暮らしを余儀なくされている人たちがいる。

木々の根元から高さ2〜3mのところまで枝が付いていないのは、「そこまで津波が押し寄せた」という痕だと聞いた。

風がえらく冷たくて、震えた。
「まだまだ、これは、そよ風ですよ」
地元の人にそう笑われた。
震災のあの日、寒風に凍えながら、救出を待っていた人たちがいたのだと思うと、居た堪れなくなった。

三陸の海は、美しかった。
見渡す限り水平線。太平洋が広がっている。
でも、あの日、津波となって、この海は荒れ狂ったのだ。
複雑な気持ちで、海を見ていた。

町のレコード屋

本厚木での取材前、駅の近くのCDショップに立ち寄ることにした。
地元出身のバンド、「いきものがかり」をインディーズ時代から応援していた店だという。それが、ネット通販やダウンロード販売の時流には勝てず、今月いっぱいで閉店すると新聞記事で知った。

いきものがかりがデビュー前に路上ライブをしていた小田急本厚木駅から歩いて数分。1964年に開店した「タハラ」は楽器も販売し、音楽を志す地元の若者が集まる場でもあった」(朝日新聞夕刊、1月18日付)

町の音楽、文化をサポートし、牽引してきた店だったのだろう。その姿を一目、見ておきたいと思った。

店は、商店街の一角にあった。
中に入ると、いきものがかりのアルバムが並び、彼らの曲が流れていた。壁には彼らのポスターや書き込み、ファンの綴ったメッセージカードが何十枚、何百枚と貼られていた。

だが、店の棚は、隙間が目立つ。1階の邦楽コーナーも、地階の洋楽コーナーも。閉店を目前に控えているのが感じられる。

「閉店のお知らせ」の張り紙を見ると、「1964年10月に開店」。
ちょうど自分の生まれた頃に、この店も産声を上げたことになる。ひとり勝手に縁を感じた。

思えば、こういうCDショップ、いや、レコード屋はかつてどの町にもあったのだ。子どもの頃、ちょっと緊張しながら、背伸びして、店に入ったことも思い出す。

店の棚を一巡し、数少なくなった在庫から、以前から聴きたかった大島保克さんのアルバムを手に取り、レジへ。

店員さんは、CDを丁寧に袋に入れてくれた。
「ありがとうございます」
よそ者の自分が言えるのは、この一言だけだろう。
敬意とエール、餞別の気持ちを込めて、店員さんに僕はそう返した。

「パンとペン」〜物書きの魂

○土曜日。
ノンフィクション作家・黒岩比佐子さんの講演会に行く(会場は、神保町の東京堂書店)。

この10月に刊行された著書『パンとペン〜社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』をめぐっての話。堺は明治期、幸徳秋水と並ぶ社会主義者としてはよく知られている。だが、「売文社」という名の日本初の編集プロダクションを立ち上げ、海外文学を翻訳していたとは知らなかった。運動への厳しい弾圧の中、「食べることと書くこと、運動を続けること」の狭間で、ユーモア精神で闘い抜いた姿を、黒岩さんは描いたのだという。

講演は、この400ページ以上の大著への、素晴らしいプロローグだった。同時に、本のタイトル、「パンとペン」を身をもって伝えられた気がした。黒岩さんは重い病と闘いながら、執筆を続け、見事に貫徹された。間近でお話を聴くことで、物書きとしての魂を教わった。背筋が伸びた。

紹介して下さった中で、印象に残った堺の言葉。

「自分たちのやっていることは、もしかしたら道楽なのかもしれない。でも、道楽は道楽でも、命がけの道楽をしてるんだよ」

インディペンデント

日付が変わった、10時間ほど前のこと。
出先で仕事が終わった後、しばらくネット検索で徘徊していた。そうしたら、懐かしい名前に出くわした。

先達の音楽ライターだった。
彼女は、メジャー、インディーズに関係なく、自分が惹かれたミュージシャンのことを、いつも丁寧に、文に紡いでいた。足繁くライブに通い、楽曲を聴き込んでのインタビューは、学ぶことが多かった。

僕は、久しぶりに彼女のサイトにアップされていた、好きなミュージシャンのロングインタビューを読みふけっていた。

だが、その後、「検索」欄の下に浮かぶ文字を見て、愕然とした。
数日前に、彼女は亡くなっていたのだ。

虫の知らせ、だったのか…。

一時期、僕は彼女のサイトをよく読んでいた。そこで取り上げられているミュージシャンが、自分の好みと重なったこともある。ヒートウェイヴソウル・フラワー・ユニオンリクオ沢知恵京都町内会バンド……etc。

「ほぼ毎日更新」のブログも読んでいた。そこには、日々の暮らしのことが実に詳しく記されていた。毎日のようにライブに出かけ、時には、ハシゴもして、しかも、その多くは自腹だったはずだ。ミュージシャンを応援する者として、また、書く対象との距離を保つという意味でも、そのスタンスに共感した。かくありたいと思った。

業界に流されず、インディペンデントのライターとして歩む。そこには、生活とのかねあいも当然、生まれる。時には、朝方までバイトをしながら糊口をしのぎ、好きなミュージシャンのことを伝えんとする。しかも、病を押して。そんな体を張った姿にも圧倒された。

だからこそ、ミュージシャンと深い対話(インタビュー)ができたのだろうと思う。

直接、お目にかかって、お話しできなかったことが、ほんとうに悔やまれる。
何度かメールでやりとりしたり、ネットラジオに投稿し、読んでもらったことはあった。ライブハウスでニアミスしたことも、きっと何回もあったろう。彼女がブッキングを手がけていたライブハウスにも行ったことがあったのに……。

奇しくも、今日は拙者の誕生日。
先達からメッセージを受け取った気がした。

角野恵津子さん、ありがとうございました。

*彼女が、どれだけミュージシャンから信頼され、愛されていたか。ネットを見ると、心のこもった追悼の言葉が数多く、綴られている。